呉昌碩 清代の書家・篆刻家
呉昌碩ってどんな人?
呉昌碩(ごしょうせき 1844-1927年)は、清代の書家であり、篆刻家・画家です。
清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻で独創の境地をひらき、「四絶」と称されます。
名:俊(しゅん)・俊卿(しゅんけい)
字:香圃 ※69歳から昌碩
別字:蒼石・倉石・倉碩
号:缶廬(フロ)・苦鉄・破荷・大聾・老蒼・石尊者・石人子・石敢当・破荷亭長・蕪青亭長・五湖印丐など
17歳で戦争により、家族を失い一家離散し、21歳で帰郷します。周囲から才能を認められていましたが、官職
には就かず、22歳から書画や印を売って過ごします。
その後、書家の楊峴(ようけん)に書法と詩文を学びます。
収蔵家として有名な呉雲・呉大澂・潘祖蔭・沈汝瑾との交流により、知名度が高まりました。
51歳で呉大澂(ごだいちょう)に招請され、日清戦争に従軍します。
61歳、金石や篆刻を研究する団体「西泠印社」が創立され、その長となります。
晩年も創作活動にいそしみ、亡くなるまで詩・書・画・篆刻で独創の境地をひらきます。
詩は孟郊(もうこう)の詩風を学び、詩集に「缶廬集」があります。
画は、明の徐渭や清の八大山人らから多くを学び、独自の画風を確立します。
梅・藤・菊・牡丹などの花卉画を得意としました。
呉昌碩の臨書 書き方のヒント
- 蔵鋒の起筆と中鋒の線
- 三行書きにおける分間布白
呉昌碩の特徴
楷書は、はじめ顔真卿を学び、鍾 繇(しょうよう)を模範に書道の基礎を固めます。
行書は、王鐸を学び、のちに欧陽詢(おうようじゅん)・米 芾(べいふつ)を学びます。
晩年は、篆刻隷書の筆法で狂草をつくり、一気呵成な書風を展開しました。
呉昌碩が最も研究した古典は、石鼓文で、書も篆刻も石鼓文の影響が大きく反映されています。
呉昌碩による落款印
呉昌碩の印を求める声は内外から殺到し、日本でも日下部鳴鶴、犬養毅、富岡鉄斎、内藤湖南などが自用印を依頼しました。
また篆刻家の河井荃廬は、清に渡って呉昌碩から直接刀法を学び、ついには西泠印社に入社しました。
呉昌碩関連の本
呉昌碩西泠印社記二種
呉昌碩臨石鼓文
呉昌碩印譜
中国篆刻叢刊 呉昌碩
呉昌碩行書冊
呉昌碩書法字典
など
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