一休宗純とは、どんな人?
一休宗純とは?
1394-1481年
京都の生まれ、室町時代の禅僧。大徳寺47世。
後小松天皇の落胤(正妻以外の女に生ませた子)といわれています。
幼名:千菊丸
法名:宗純
号 :一休・狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、国景(こっけい)
6歳のとき、京都にある安国寺の象外禅鑑(ぞうがいぜんかん)に入門・受戒し、周建とよばれます。
13歳のとき、建仁寺で慕哲龍攀(ぼてつ-りゅうはん)に作詞を学びます。
13歳の作詞 漢詩「長門春草」
15歳の作詞 漢詩「春衣宿花」
17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子になります。
21歳のときに師匠が死去し、石山寺に7日間参籠し、入水して自殺を図りますが、説得されて思いとどまったとつたえられています。
翌年、近江国(滋賀県)堅田の華叟宗曇(かそうそうどん)に師事し、法名を宗純に改名します。
25歳のとき、洞山三頓棒の公案を透過して、師匠から一休の号を与えられます。
27歳のとき、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて大悟します。
華叟は印可状を与えようとしましたが、権威を否定する一休は辞退しました。
29歳のとき、大徳寺の言外宗忠の33回忌に布衣草履で列席して、風狂と評されます。
その頃から詩、狂歌、書画の生活を送りようになりました。
88歳のとき、酬恩庵で亡くなりました。
一休の言行は、破戒僧のようでしたが、多くの人に尊敬されました。
一休の詩集「狂雲集」
一休宗純の書
一休宗純は、書法を学んだ人ではないと考えられていますが、その書には個性的で書法を超えた魅力があります。
点画は筆力がありつつ、大胆で自由に書かれていますが、字形は崩れていません。
国内の禅僧の墨蹟の中では、一休宗純の書は大燈国師に次いで尊重されています。
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